お葬式の知恵袋 特別編

仏教とは何か?

仏教語辞典

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仏教とは何か?

仏教とは読んで字の如く"仏(ほとけ)の教え"です。
では仏(ほとけ)とは何でしょう?

ご存知のように、仏教の開祖は釈迦(しゃか)です。
釈迦はインドのシャカ族の王子でその名をゴーダマ・シッダルタといいましたが、出家し、菩提樹の下でこの世の真理に目覚めました。

釈迦は弟子たちから"釈尊"、"ブッダ"と呼ばれていました。
"ブッダ"とは"目覚めた人、真理(この世の道理)を悟った人"という意味になります。

仏の字は"ブツ"と読みます。もともとはインドの言葉であった"ブッダ"という言葉を漢字に当てはめ、仏陀と書いたのが"ほとけ"の始まりです。

釈迦が悟った真理は永遠不変の真理であるから、釈迦が出現する以前にも"仏(真理を悟った人)"はいるはずであり、また釈迦以後においても仏が出現する可能性があります。

釈迦は仏の一人にすぎず、仏教(仏陀の教え)とは、諸仏の教えなのです。
仏教には「仏陀の教え」「仏陀になるための教え」という2つの側面があるのです。
つまり仏教は、仏陀の教えを学びそれを実践し、私たち自身も仏になることが期待されます。

では釈迦が悟った真理とは何か?

釈迦が菩提樹の下で悟ったのは「縁起」の理法であったとされます。
釈迦はこの世の真理について次のように分析しました。


諸行無常(しょぎょうむじょう)・・一切の形成されたものは"無常"である。

 この世に形あるある全てのものは、同じ状態を保っているものはない。
 不定であり、たえず変化している。

諸法無我(しょほうむが)  ・・一切の形成されたのものは"無我"である。

 この世に形ある全てのものは、私でもなければ、私のものでもない。実体はない

  ・・・(涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)・・・ここまでが三法印)

一切皆苦(いっさいかいく) ・・一切の形成されたのものは"苦"である。

 この世に形ある全てのものは、望んでも得られない、私の思うようにならない避けられない、苦しみである。



それは"いかなるものごとも独立して存在するのではなく、それぞれの原因と条件が相互に依存しあって存在している"からであり、自然の摂理によるところであると説いたのです。

これを 衆縁和合(しゅえんわごう)="縁起(因縁生起)"といいます。


釈迦は"人生は苦である(生きていくことは苦しみの連続である)"ことの原因は、そのすべてが「縁」によって「起こる」のであることを明らかにしました。・・・十二因縁 (じゅうにいんねん)

一つ一つが実体として存在しているものではなく、すべて縁によってあらわれてくるにすぎないと考えたのです。

この縁起の法が釈迦によって最もわかりやすく説かれたのが
「四諦(したい)」
です。

一、 こは苦なり
二、 こは苦の生起なり
三、 こは苦の滅尽なり
四、 こは苦の滅尽にいたる道なり


「四諦」とは「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の四つ。

「苦諦」とは"苦"に関する真理、人生とは本質的に"苦"であると説く。
第二の「集諦」は"原因"に関する真理で、苦の原因を明らかにする。
第三の「滅諦」は、原因の"消滅"に関する真理で、苦の原因である煩悩の消滅が苦の消滅である、と説く。
そして最後の「道諦」は、"実践(修行)"に関する真理、つまりいかにすれば苦の原因を取り除けるか、を説いています。

釈迦は、絶妙のバランス感覚とも言うべき「中道(ちゅうどう)」を説きさらに、苦を消滅させるために八つの正しい道「八正道(はっしょうどう)」を教示しています。

一、 正見  (しょうけん・・・正しいものの見方)
二、 正思惟 (しょうしゆい・・・正しい思索)
三、 正語  (しょうご・・・正しい言語活動)
四、 正業  (しょうぎょう・・・正しい身体的行為)
五、 正命  (しょうみょう・・・正しい生活)
六、 正精進 (しょうしょうじん・・・正しい努力)
七、 正念  (しょうねん・・・正しい注意力)
八、 正定  (しょうじょう・・・正しい精神統一


このような修行を積むことによって煩悩を克服し、その結果として"苦"を克服することができる、というのが釈迦の基本的な教えです。

"我ありと執着するところに迷い・苦の根源がある"。

“我思うゆえに我あり(デカルト)”と信じている、我さえもその存在を否定してしまうのだから、その我がもっている「苦」など存在しようがないのです。

これを釈迦は相手の理解力の程度や素質に応じて、臨機応変に説法の内容を変えて説きました。
「対機説法」「応病与薬」と呼ばれるやり方がこれです。




仏教の死後の世界観は基本的にインド人の考えたものです。

古代インド人は現世を六つの世界に分類し全ての世界は苦痛であるとしました。
(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)

そしてこの六つの世界を"六道"と呼び、人はこの六道を生まれ変わり死に変わりして輪廻転生を続ける、つまりわれわれは死後六道のいずれかに再生し、そこで苦しみまた輪廻転生して苦しみを続ける、といった、永遠に苦しみを続けねばならぬ存在であると古代インド人は考えていました。

そこで仏教はこのような輪廻転生の世界から永遠に脱出することを目指したのです。
この輪廻の世界への執着を断ち切って、この世から完全に脱出することを釈迦は教えました。

その脱出を「解脱(げだつ)」と呼び、解脱した状態(そういう世界ではない)を「涅槃(ねはん)」と呼びました。


釈迦は霊魂の有無、死後の世界という経験も論証も不可能な問題は、「無記」(むき・・善とも悪とも記述・説明がつかないこと)として退けたのです。

これは有名な「毒矢の喩え」によって一層明らかになります。

毒矢に射られた人が、矢を射た者はどこの種族か、名前は、弓の種類は、弦(つる)はなんの弦か、矢鏃(やじり)・矢の幹・羽はどんな種類のものから作られたか・・とそれが分からない間は毒矢を抜かずにいるとしたら、彼は毒がその間に体中にまわって死んでしまうだろう。
彼にとっては、毒矢を抜くことが生命を永らえる一大問題なのである。

霊魂の有無・滅不滅の問題を考えるよりも、先決問題であり一大事たる人の生きるべき真実の道を明らかにすべきである、と釈迦は教えたのです。






インドの地に釈迦が出現して仏教が創始されましたが、その仏教が日本に伝来してくるまでに千年以上の時間がたっています。

仏教は、インドから中央アジアを通って中国朝鮮へと伝わり、日本へ入ってきました。
その時間と空間の中で仏教は、大きな変化を遂げ、多種多様な仏教が成立しました。

日本において仏教は、その定着化の過程のなかで、在来の民間信仰に意味付けを与えて、積極的に仏教体系のなかに組み入れてきたといえます。

葬送儀礼は、中世以降、積極的に仏僧が葬儀に関与したために、仏教葬が基本的葬法となり、先祖供養の習俗が一般化して今日に繋がっています。

しかし日本仏教は系譜の上からはインド仏教、中国仏教につながってはいるが、教義レベルからでなく生活レベルから見るならば、日本の精神風土の土壌のなかで、在地の信仰・習俗と習合し、日本民族が育て上げた独自の宗教となっています。

したがって、表面は仏教信仰となっていても、その体系下に在来の信仰・習俗が息づいているのです。


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